2026-08-26 06:10『Venus in Furs』マゾヒズムの原典.20・最終回





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司書は今夜、私を、この長い旅の出発点となった、あの最初の部屋へと連れ戻した。革張りの背表紙が並ぶ、あの重厚な棚の前だ。燭台の炎は、初めてこの部屋を訪れたときと同じように、静かに揺れている。
「今夜、私たちは、この図書館に足を踏み入れた、あの最初の夜へと帰ってきました」と司書は言った。「十九夜にわたる長い旅の果てに、私たちは今、一つの大きな問いの前に立っています。マゾヒズムというものは、はたして、一つの文化として、これからも生き続けていくのだろうか」司書は棚から、最初の夜に手に取った、あの一冊を、そっと抜き出した。「これが、私たちの旅の始まりでした。今夜は、この一冊を胸に抱きながら、これまでの道のりを振り返り、そして、この物語の行く末を、共に見届けたいと思います」
SM奇譚 創戯旅団 外伝第72夜
世界禁書図書館~SM・退廃・倒錯文化研究~
『Venus in Furs』サッヘル=マゾッホ マゾヒズムの原典を読む
episode.20(最終回) 「マゾヒズムは文化になるのか」
※2026年08月26日06時11分【Livedoor、Ameba、FC2初稿】
※2026年08月26日05時33分【note有料投稿】
■第一章:十九夜の旅を振り返って
司書は本を胸に抱えたまま、ゆっくりと歩き始めた。「私たちは、この旅を、一人の作家の生涯から始めました」と司書は言う。「貴族社会に生まれ、性道徳という重い規範の中で、自らの欲望と向き合い続けた、一人の人間の物語です。そこから、支配されたい男という、当時としては革命的な願望、契約という儀式、毛皮という象徴、羞恥という快楽、そして女性支配者ヴァンダという存在の構造へと、私たちは一歩ずつ、歩みを進めてきました」司書は棚の奥、これまで巡ってきた様々な区画を、順に指差した。「愛と服従の両立、精神的隷属という概念、現代日本との違い、そして誤解の歴史。私たちは、この物語がたどってきた、栄光と苦難の両方の道のりを、丁寧に追いかけてきました。欧州やアメリカのBDSM文化への影響、ロールプレイと現実の境界、現代Femdom文化との接続。物語は、文学という一つの器から溢れ出し、様々な文化の中へと、静かに、しかし確実に、浸透していきました」
私は、この長い旅を通じて、もっとも印象に残っていることは何かと尋ねた。司書は少し目を細めた。
「一つに絞ることは、難しいですね。けれど、あえて言うならば、日本のサブカルチャーへの流入と、AI時代という新しい局面、そして前夜にお話しした、性癖という現象そのものの正体。この三つの夜は、私にとっても、特に深く考えさせられる時間でした。一冊の物語が、これほどまでに多様な姿へと枝分かれしながらも、その根を失わずにいられたことに、私は改めて、深い驚きを覚えているのです」
私は、この旅を通じて、司書自身の物語の見方は、何か変わったのだろうかと尋ねてみた。司書は少し考え込んでから、静かに答えた。
「変わりました。この旅を始める前、私はどこかで、この物語を、一人の特異な作家が生み出した、珍しい一冊の書物として見ていました。けれど、十九夜を重ねる中で、私は、この物語が、決して特異なものではなく、むしろ、人間という存在の、極めて普遍的な部分を映し出す、一枚の鏡のようなものなのだと、気づかされたのです。特異に見えたものの奥に、実は誰もが持っている、根源的な願いが眠っていた。この発見こそが、この旅を通じて、私がもっとも大きく心を動かされた瞬間だったのかもしれません」
■第二章:現代社会という、新しい貴族社会
司書は本を棚に戻し、窓のない図書館の、しかしどこか外の世界を感じさせる一角へと歩みを進めた。
「ザッヘル=マゾッホが生きた十九世紀の貴族社会は、性道徳という、極めて厳格な規範によって、人々の欲望を強く縛り付けていました」と司書は言う。「では、現代社会は、あの時代と、どれほど違うのでしょうか」司書は静かに続けた。「表面的には、私たちは、あの時代よりもずっと自由になったように見えます。性についての語りは、以前よりもずっと開かれたものになりました。しかし、私はここで、一つの問いを立てたいのです。私たちは本当に、あの時代の抑圧から、完全に自由になったのでしょうか。それとも、抑圧という力そのものは、姿形を変えて、今もなお、私たちの中に生き続けているのでしょうか」
私は、その問いに、司書自身はどう答えるのかと尋ねた。
「私は、抑圧は、決して消えてなくなったわけではないと思っています。かつては性道徳という一枚岩の規範が、人々の欲望を縛っていました。今では、その代わりに、効率性、生産性、そして常に前向きであることを求める、また別の種類の規範が、私たちの内側に、静かな緊張を強いています。委ねること、弱さを見せること、非効率な時間を過ごすこと。これらはすべて、現代社会という、新しい形の貴族社会の中で、以前とは違う形の、しかし確かに存在する、抑圧の対象になっているのかもしれません」
私は、それでは、現代社会に生きる私たちは、あの十九世紀の貴族たちよりも、本当に自由になったと言えるのだろうかと尋ねた。司書はゆっくりと首を振った。
「単純な優劣を、つけることはできないと思います。あの時代の人々が背負っていた重さと、私たちが今背負っている重さは、種類が違うだけで、その重さの総量そのものは、それほど変わっていないのかもしれません。むしろ、抑圧の形が目に見えにくくなった分だけ、現代社会の抑圧は、より厄介なものになっているとさえ、私は感じることがあります。誰かに強制されているという自覚がないまま、私たちは、常に前向きであれ、常に生産的であれという、見えない声に、静かに従い続けているのかもしれないのですから」
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ここまで読んで頂き、ありがとうございます。十九夜にわたる長い旅を経て、 私たちは今、最後の扉の前に立っています。マゾヒズムというものは、 はたして、一つの文化として、 これからも生き続けていくのでしょうか。そして、 150年前にザッヘル=マゾッホが物語に刻んだ、 あの欲望のかたちは、 日本の“SMクラブ”という、 まったく異なる思想の系譜と、 どのように結びついているのでしょうか。
ここから先は、 この長い連載の、本当の締めくくりです。司書が、この図書館という場所に込めてきた、 最後の、そして最も大切な言葉を、 どうか、見届けてください。
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https://note.com/ideal_rabbit5011/n/n8248780ab33b
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